ガラスのような繊細な心をもっていた少年時代。
私は、周りとは少しだけ感覚が違っている不思議な子どもでした。
幼稚園児の時のことです。
「一人一つずつ、灰皿を作ろう!」というテーマの陶芸体験教室がありました。
「幼稚園児に灰皿作らせる!?」「倫理的に道徳的にどうなの!?」と突っ込みを入れたくなりますが…(笑)
天狗の茶番劇(少年時代③を参照)にしても、この灰皿教室にしても、この幼稚園はある意味すごい。現代人との意識の違いにも驚かされますね。やっぱり人類は進化していますね。
この陶芸体験教室は、私がこの幼稚園に転入してくる前に実施されていたので、参加していませんでした。
その日は、焼き上がって届いた灰皿を園児みんながもらえる日でした。
陶芸体験に参加していなかったため灰皿がもらえなかった私を不憫に思ったのか、先生方のどなたかが作った灰皿を、一ついただきました。
その作品は、決していい作品とは思えませんでしたが、一応、灰皿の形にはなっていました。
名付けて、「普通の灰皿」です。
もう一人、陶芸体験教室の日に欠席したようで、灰皿がもらえない男の子がいました。その子も私と同じように、先生が作った灰皿をもらいました。
しかし、そこで問題が発生したのです。
その子がもらった灰皿は、どう見ても灰皿の形には見えず、灰皿としての機能も持ち合わせていませんでした。デザインがあまりにもアート過ぎて、凡人には理解できない形だったのです。例えるならば、岡本太郎さんが作ったかの様な灰皿です。
名付けて、「太陽の塔灰皿」です。
そのアーティスティックな灰皿をもらった男の子は、「これは灰皿じゃない!」と泣き出す始末。「なにあれ?」という周りの園児からの冷たいまなざし。そして、気まずい表情の先生たち。
教室にその子の泣き声が響き、暗い雰囲気が漂っている中、なぜか私は手を挙げていました。
そして、こう言ったのです。 「僕の灰皿と交換してもいいです。」
私もアーティスティックなタイプの人間ですが、その理解を超えた作品に戸惑いはあったものの、その子があまりにも哀れで、思わず声を上げてしまったのだと思います。
そして、私は「普通の灰皿」をその子に渡し、岡本太郎作「太陽の塔灰皿」を受け取ったのです。
今思うと、おとなしく人前で話すこともできない自分が、よく申し出たなと感心します。控え目で弱々しい子どもでしたが、「自分のことよりも人のためならばの精神」は、強かったようです。
そういえば、子どもの頃によく考えていたことがあります。
もしも、誰か一人が命を差し出すことで、この地球の問題がすべて解決するのならば、私は立候補する。この地球のためなら、どんなに痛い目にあっても大丈夫。命は惜しくない。
そう、思っていました。
この地球に対する命がけの情熱。 無駄にしたくはないですね。
この情熱が、どこから生まれてくるのかは分かりません。しかし、地球平和に対する思いは半端なく、まるで母親が子どもに抱く愛情のような感じだと思います。
私は、何かしら使命を抱いて、この地球に生まれてきたのだと思っています。その使命を果たすために、私は志願して生まれてきたのです。それが具体的に何なのか、そのためには何をどうすべきかを探している最中です。
子どもの頃の情熱は、もちろん今でも消えていません。燃えています。
少年時代⑤につづく
コメント
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